米子を代表するフォトグラファー
鳥取×働く人vol.29はフォトグラファーの種田さんの登場です。
たねだ写真店には撮影案件で、普段からお世話になっています。
また、私が小学6年生の修学旅行の同伴カメラマンも種田さんでした。こうやって大人になって一緒に仕事をさせてもらえる事に感動です。
たねだ写真店について
たねだ写真店の紹介
スタジオでの家族写真、ブライダル、学校関係、広告関係など様々な案件に関わらせてもらっていて、おかげ様で忙しくさせてもらっています。
僕を含めて、たねだ写真店のスタッフは人とのコミュニケーションが大好き!仕事を通じて、様々な方と出会って楽しい日々を過ごさせてもらっています。
創業から60年経つ歴史を持つ
創業して60年とちょっとになるお店です。カメラという文化が世に誕生して約150年と言われています。カメラの歴史の半分とまではいきませんが、長い間これをお仕事とさせてもらいました。
うちの親父がお店を立ち上げてね。ガラス板に薬を塗って撮っていたような時代。最近では見かけなくなった『暗室』もありました。この店にもなくなってしまったのだけれど、また『暗室』を作ろうと思っています。
たねだ写真店のコンセプトやこだわり
たねだ写真店さん全体で掲げている事、コンセプトなど教えてください。
人間味。人間魅溢れるフォトグラファーになる事。僕達は人間味じゃなくて人間魅と言うようにしています。
テクニックや技術も持ち合わせた上で、スタッフとどうすればいいのか、常日頃から考えています。
種田さんと一緒に現場に行かせてもらうじゃないですか。帰る時にクライアントが皆種田さんに興味を持っている。最後には種田さんを好きになっちゃう。先日なんて、帰り際に「今度、お茶でも飲みに来てください」と言われていましたよね(笑)
好かれているかはわからないけどね。写真店としての歴史、培ってきた技術や業界のセオリーなども大切にしていきながら、その上で僕達それぞれの人間魅に興味を持ってもらって、仕事をいただいていると考えています。
フォトグラファー種田宏幸
今は派手だけど地味だった学生時代
種田さんの幼少期や学生時代について教えてください。
今は派手だけど全然地味でさ(笑)
積極的に前に出るようなタイプじゃなかったと思う。ビビりでヘタれで。それは今も変わってないか(笑)
『金髪』
聞かれる事も多いと思いますが、いつから”金髪”なのですか?私も金髪なので興味があります。私が小学生の頃の修学旅行の同伴カメラマンをされていた時は、すでに金髪でしたよね。
金髪対決(笑)
いつからだったかな…。
金髪の前はスキンヘッドだった。一つの方法論として、フォトグラファーとしてのキャラクターを確立するために、まずは見た目を変えたんだと思う。
種田さん、目立ちますもんね。修学旅行の時も注目の的でしたよ。
自由でいたい、覚悟の現れ、人とは違う、など。かっこ良く言い過ぎか(笑)
カメラに興味を持ったきっかけ
カメラに興味を持った時期やきっかけについて聞かせてください。
僕がまだ地味だった頃…高校2年生か3年生頃かな。加納典明、篠山紀信などのフォトグラファーが注目されて、素直にかっこいいなと感じていました。GORO(ゴロー)という雑誌もあって、興味深く見ていました。GOROの創刊号はデヴィ婦人のグラビアだったね。
東京の専門学校に行きました。最新の事を学びたくて、僕の憧れているような人達の仕事をしたくて、行くなら東京だろうって(笑)
と言ってもバイクに乗ってばかりで真面目な学生ではなかったかな。しかし、今振り返っても学校で基礎的な事を学べて良かったと感じているよ。
ササキスタジオに入る
ササキスタジオに入りました。入ったと言っても、そこのスタジオはフリーのカメラマンが集まっていて、プロダクションのようなイメージ。
最初はカメラなんて持たせてもらえなかった。アシスタントのアシスタント、いわゆる雑用かな。カメラを触ったら怒られてましたね(笑)ペンキ塗りや機材用意。
うーん、その頃はまだフォトグラファーという自覚すらなかったね。
きちんとしたスタジオなだけあって、広告代理店の人とかがよく出入りしていたから、自分を売り込んでいきました。
それからは通販カタログのアシスタントを3年間ぐらいしていました。写してあるものを元にして、再現して撮影する事を『複写』と言うのだけれど、カメラを持たせてもらえるようになっても、そういう案件ばかり担当していました。もちろん、この時の経験も今に活きているとは思っている。
複写ばかりしているものだから、複写の複写長(ふくしゃちょう)なんて呼ばれたりもした。
フォトグラファーになったと実感した瞬間
自分も変わろうと藻掻いていた時期だったと思う。ある時、尊敬する『星野豊』さんから「タネ、お前最近頑張っているな。この仕事やるから最初から最後までお前の自由にやってこい」と言われて、パリコレに出演するようなモデル達を引き連れて沖縄にロケに行った。
沖縄でレンズを通した風景を見た時、「フォトグラファーになったなあ」と初めて感じたよ。
自分の発想の赴くままに仕事もしても良いというのは、クリエイターとしてはこの上なく嬉しいですね。
そこから、色々な事が変わっていったような気がする。福山雅治さんを撮らせてもらう機会があったり。とある雑誌のレギュラーで巻頭10P担当させてもらったり。芸能関係、音楽関係の仕事が増えていきました。
売れっ子だったかはわからないけれど、僕自身調子こいてたとは思う(笑)
鳥取へUターン
売れっ子で中央でご活躍されていた種田さん。鳥取にUターンするきっかけは?
ちょうど石井竜也さんを撮影させてもらっていた時。妹から泣きながら電話がかかってきて。「お父さんが倒れた」って。家族もいるしスタジオもあるわで、帰る事を決意した。
雑誌GOROに感化されて専門学校へ入学。ササキスタジオで下積みも経験されて、晴れてプロのフォトグラファーになれて、その最中でのUターン。当時の心境をお聞かせください。
色々な葛藤があったよ。枕を濡らす事もあったかな(笑)完全に立ち直るまでは15年くらいかかったと思う。
自分に子供ができて子育てをするようになってから、自分の中でも変化あったかな。
仕事の面でも、この鳥取という地で家族写真を撮ったり、学生の写真を撮ったりするのが一番楽しい。
『楽しさ』の変化
スタッフの話をされている時の種田さんも、すごく楽しんでおられるように見受けられました。
先月もさ19歳という若い女の子が入ってきて。その子に教えたり、一緒に仕事をするのがすごく楽しいの。
クライアントとのコミュニケーションを大切にされている種田さん。
心の底からの笑顔や、リラックスした時の表情などを引き出すのが上手だと思いました。クライアントとのコミュニケーションで種田さんが心がけている事を教えてください。
その人に何が響くのか、何が届くのか、それを考えています。心が揺れ動く、意識が傾く、その瞬間を切り取って写真という形で残していく事。
元旦1月1日に家族写真を撮ろう!
元旦の1月1日での家族写真企画をされています。この企画の詳細や想いなど、お聞かせください。
1月1日ってそれだけで記念になるじゃないですか。そんな日に家族写真として残せたら素敵なんじゃないかな、と思って始めた企画。なので、僕にとっての元旦1月1日は朝から夜までスタジオで作業をする日(笑)
前日の12月31日も準備しているかな。
料金は西暦分だけいただいています。なので、毎年1円ずつ値上がりするんだよ!(笑)
若者へメッセージ
種田さんのように写真を仕事にしていきたい、そんな若者にメッセージをお願いします。
すごくやり甲斐のある仕事だと思う。カメラを持つと、日常の景色が変わる。見え方が変わる。人物の表情、雲の動き、影の形さえも違って見える。そんな日常の小さな気付きを楽しみながら、人間魅を大切にして頑張ってほしい。
最後に
今後の夢や目標
「トキめき」をテーマに、被写体の方も僕自身も、もっとトキめきながら仕事をしていきたいです。仕事をこなしていくと忘れがち。そして、返事は「はい」か「YES」をモットーに。だから、時々大変な仕事を請けちゃったりもするんだけど(笑)
読者へメッセージ
自分の言葉にネガティブな要素を取り入れずに楽しんで仕事をしたいと考えています。僕自身、人が大好きでこれからも多くの方と出会って、一緒に時間を過ごしていきたいです。最後まで読んでくれてありがとう!
今回の鳥取×働く人はたねだ写真店の種田宏幸さんでした!たねださん、ありがとうございました。
種田 宏幸(タネダ ヒロユキ)
フォトグラファー/たねだ写真店
鳥取県米子市出身
今では金髪がトレードマーク。学生時代は地味なものだった。
高校生の頃、加納典明、篠山紀信などのフォトグラファーが注目されて、素直にかっこいいと感じる。雑誌GOROに興味を覚える。
フォトグラファーを志し、東京の専門学校へ。と言っても不真面目でバイクに乗っている時間の方が長かった。その後、ササキスタジオ入りへ。
ササキスタジオでは、しばらくの間カメラを持たせてもらう事は叶わず。アシスタントのアシスタントをするような毎日。
藻掻いていた時期。何かを変えなきゃいけない。フォトグラファーとしてのキャラクターを確立するために、髪の色を金髪へ。
それでも真面目に複写の仕事をこなしていると、星野豊氏から仕事を任せられる。パリコレに出演するようなモデル達を引き連れて沖縄へ。
沖縄でレンズを通した風景を見た時、「フォトグラファーになったなあ」と初めて感じた。
そこから何かが変わった。
数々の著名人、アーティスト、音楽家などを撮る機会が増えて、一躍売れっ子フォトグラファーの仲間入り。
当時の自分を「調子こいてた」を振り返る。それだけ何もかもが上手く回り始めていた矢先。
故郷から一本の電話。「父親が倒れた」との悲報が届く。家族やスタジオも残している事からUターンを決意。
15年は枕を濡らす日々。東京で売れっ子だった事、東京でやり残していた事、様々な葛藤があった。
それでも鳥取での日々は忙しく、家族写真、学校関係、婚礼関係、広告の仕事など様々な仕事が舞い込んでいく。鳥取に帰ってからも東京からの仕事が途切れる事はなかった。
今では、「家族写真が一番楽しい」と思う。どんなに有名なアーティストや名前のある著名人の仕事の事も、笑顔に包まれた家族の表情をレンズ越しに見ると、全て忘れられる。
インタビューを終えて
「今は家族写真を撮るのが一番楽しい」という言葉が印象的です。
東京の仕事と鳥取の仕事を両立されている種田さんを尊敬しています!
種田宏幸さん、ありがとうございました!
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山陰ペディアの名ばかり委員長。
担当はシステム、デザイン、ライティング。
本業はWebプロデューサー。
好きな事は、ゲーム・アニメ・お酒を飲むこと、歌うこと。
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