女子サッカー界のレジェンド、大部由美さん登場
コンセプトムービー『Philosophy』
本日は、元なでしこジャパン日本代表、現在北斗ソアラFCの監督を務められている大部由美さんのインタビューです。大部さん、本日はよろしくお願いします!
北斗ソアラFC監督、元女子サッカー日本代表
今の主な活動
翔英学園の中に『はぐくむセンター』を昨年の4月に立ち上げていただいて、そこのセンター長をしています。翔英学園は米子北高等学校と米子北斗中学校・高等学校、東みずほ幼稚園、東みずほ幼稚園の4つの施設を持っています。その中で現在主にしている仕事は、幼児~中等教育を受けている子たちが、できる喜びを重ねていけるような学びのある授業や公演等、私ができることやその仕組み作りを担う形で関わっています。主に幼稚園の方でサッカーを通じた人間力育成に携わっています。
フットボールクラブ『北斗北斗ソアラFC』も立ち上げてもらいました。今は部員7名と少ないですが、地域の女の子たちがサッカーを続けていける場を創設し、ここでも人間力を培い、世界に羽ばたいていけるような子供たちを育成することに力を入れています。
芝やナイター設備を搭載!
北斗中学校・高等学校内にあるグラウンドは、芝やナイター設備が備わっており、素晴らしい環境ですね。
最高です!鳥取県の中でもナイターや芝生がある施設は数える程だと思います。それが学校の施設にあるということは素晴らしいことで、更にそれを使いやすく活きやすい場にすることで、地域の子供たちやこの県内で生活する大人の方にも、ゆくゆくは還元していけることをしていきたいです。
学校の中の施設ですが、北斗の学生以外も北斗ソアラで活動することは可能ですか。
部活動としてしまうとその学校の施設の子だけしか使えません。しかしクラブ化ということで、U18の女の子たちが、小学5年生から練習に参加でき、中学・高校と6年間継続して練習が出来る環境を整えることは画期的だと思います。通える子はどこからでも通ってほしいですね。
他校と合同練習も
我々7名だけでは練習が成り立つ部分とそうでない部分があります。近くの彦名SSCの子たちに、トレーニングパートナーという形で週に1度練習をしてもらって、一緒にゲームができるような環境を提供しています。
大部さんが取り組んでいきたいサッカー
大部さんは、どういう子たちと一緒にサッカーを取り組んでいきたいとお考えですか。
私がやると、なでしこジャパンを目指して、一流のアスリートを目指して、という風に思われるかもしれません。しかしそうではなく、本当にサッカーが好きな女の子が来てほしいと思います。上手いか下手かではなく、向上心のある子、サッカーがもっと上手くなりたくて、色々な友達とやるのを楽しみにする子。
そしてサッカーだけでなく、違うことをやりながらもサッカーもやってみたいという子も大歓迎です。サッカーに携わっていきたい女の子たちが集まってくれることを願っていますし、そういった子たちに私が関わることで、サッカーもそうですし、サッカーではないことにも目を向けることを逆に伝えていけたらと思っています。
幼児教育にも携わる
幼稚園での指導を行っておられます。幼児教育でボール遊びやサッカー、チーム競技は重要らしいですね。
現在二つ狙いを持ってやっています。人間は6歳までで神経系の発達が8~9割備わると言われています。幼稚園では2~6歳児までの就学前の子供さんをお預かりしている中で、その時にできる限り色々な刺激を与えて獲得してほしいと思っています。
それは何かルーティーン的に物事をやって獲得するのではなく、自ら『観る』『聞く』といった認知を働かせて、自分の判断で行動していくということが、神経系の発達や人間育成にとても大事だと思っています。そこに関してすごくサッカーはいいアイテムだと思います。
目の前で目まぐるしく変化していく局面を打開していき、それに対して自分ができることを子供たちなりに考えてほしいです。サッカーを導入することで、子供たちが自分から主体的になって物事ができるようになり、それに伴って発育・発達系の中で神経系がもっと備わっていくことを期待しています。20歳くらいには人間は全てのものが備わるのですが、その時にサッカーに携わらずとも、色々なことに子供たちの可能性を広げていくということが大事だと思っています。
もう一つの狙いは、関わる大人がレベルアップをしていくことです。先生は、ただ教えるだけでなく、『コーチング』を行い、子供に気づきを与え、自らこれができるかも、できたという気づきに導いていくという指導力をつけることが、これから幼稚園や保育園に携わる先生たちにも必要な力だと思います。
現在はその二つを柱として幼稚園の中で関わっています。
本気で取り組む時~家族のサポートの必要性~
子供が本気でスポーツに取り組んでいく時、家族や周りはどのようにサポートしてあげるべきだと思いますか。
どうしても、レベルの高い子がいる中で切磋琢磨した方がよりレベルが高くなるということを考えると、関東に行って、チーム数やメンバーが多く、定期的にリーグ戦が行われる場に身を置くのも一つだと思います。今日本の女子サッカーの中で4割は関東に人口があるので、どうしてもそこに目が行きがちです。もちろんチャレンジできる子はチャレンジしてもいいと思います。私自身もチャレンジしましたし。でも、ここ鳥取でもできなくはないと伝えてあげたいですし、私がやってきた中でもできると感じていますので、そういった視点でアプローチしてあげられると思います。
ご家族からは、やはり費用面や学校を移ること、サッカー留学なども考えられるかもしれません。それも一つですが、ただ私の経験からは、親御さんは関わらないということが大事なのかなと思います。自分の意志で動くことを見守ってあげることが、一番大事だと思います。
大部由美の素顔に迫る
幼少期・学生時代
ギャップがあるかもしれませんが、小さい頃は病弱で、小学校2年生くらいまではあまり学校に行けないという感じの子でした。父親の転勤が多く、幼稚園や保育園も行き来し、小学校の頃は1学期ずつ転校し、北は青森や秋田にも行きました。
そういった生活が小学校3年生までは続いていました。学校にもあまり行けないし、友達を作ってもどうせ…という感じでした。ただ足だけは速かったみたいで、突然転校してきたけれど走ると1位になっちゃうみたいな(笑)。それを受け入れてくれる子もいたけど、なんだあいつ、って言う子もいて。そういうのを経験してきました。
鳥取に落ち着いて、小学校4年生からサッカーを始めます。その頃はわかとり国体(第40回国民体育大会)を目指す機運が高まっている時で、学校にいる先生もサッカーが好きだったり、サッカーをメインでやりつつ先生をしている方もいました。朝は7時半に登校してサッカーを行い、昼休みになればサッカーをし、今の時期20時近くまでずっとサッカーをしているという生活が6年生くらいまで続きました。
そこで、サッカーって楽しいな、自分らしくあるなと感じ、身体も強くなり学校を休まなくなったこともあり、サッカーに目覚めさせてもらっている感覚がありました。
当時の渡小学校の女子サッカー部は盛んだったのですか。
渡小学校は学年ごとにチームが組めるくらい女子サッカーの人数はいました。担任の先生がサッカーをやっている方だと、生徒たちがぐずぐずなっていると「よし授業やめて外でサッカーするぞ!」みたいな感じでした(笑)。先生に熱がありましたね。
その後中学校に入ってからもサッカーを続けられるわけですね。
中学生からは部活の壁がありました。女の子はサッカー部に入部ができないのですが、何か部活はやらなければいけなかったので、私はバレー部に所属しました。また弓ヶ浜に一つだけ大人のサッカーチームがあったので参加させてもらって、両立する形でサッカーを続けていました。
そこで所属されたのがクラブチームの『米子コスモス』ですね。キャリアの中での起点だったと思います。
はい。実はサッカーが嫌になっている時期でもありました。バレー部との板挟みや、友達や先輩からバレーとサッカーどっちをするのかとか、学校行事に参加しにくかったり、思春期の自分の中で葛藤する時期があって、もうサッカーは辞めてもいいかなと考えていました。
そんな中、中学3年生の5月に、マガジン杯という、色々な選手が集まる女子のサッカーでは有名どころの大会に出場しました。そこでたまたま出た、自分の得意なコーナーから上がるヘディングシュートを、サッカーマガジンの編集長の千野圭一さんが見てくださっていたのです。翌年に日興證券が女子のチームを作るセレクションをしているということもあり、鈴木良平監督に「鳥取のこんな田舎のチームに逸材がいるぞ」と紹介してくださり、それがきっかけでセレクションを受けてみないかと言われました。
サッカーは辞めるつもりでしたが、力試しの意味もありますし、そう言われたら嬉しいじゃないですか。実際にセレクションに行ってみたらすごく上手い人がたくさんいました。全国に女子でこんなにいるんだって衝撃を受けましたね。セレクションで鈴木監督が、「君は下手だ。下手だけど、君が日本代表選手になる可能性は、君が頑張ればあるよ。」と言われ、それがすごく衝撃で。当時あまり褒められたこともなく、叱咤、叱咤ばかりで激励はあまりない中で育ってきた自分たちだったから、日本代表になれるかもしれないと少し有頂天になりました。
でも鳥取にいて高校生活を過ごしていたらその可能性は少ないから、思い切って千葉に行ってチームでサッカーをしないかと。それに飛びついて、「やりたいです!」とその場で決めて、親には帰ってから行くことに決めたと報告しました。
そこから勉強も頑張って、千葉に行くことになります。自分のキャリアの第一歩です。
日興證券女子サッカー部ドリームレディース
日興證券女子サッカー部ドリームレディースはどのようなチームでしょうか。
実業団のチームで、L・リーグ、現在のWEリーグと呼ばれるところが一番トップで、そこを目指して千葉県のリーグから勝ち上がって、関東リーグで出場権を得て、3年後には日本一になるというのがチームの目標でスタートしました。
その時「読売サッカークラブ女子ベレーザ」と「鈴与清水FCラブリーレディース」という二大巨頭があって、日興證券と同じくしてパナソニック等の違う企業が名乗りを挙げてきていました。バブルな時期に、当時マイナースポーツであった女子サッカーが日本一になりやすいということで、企業の社長さんがチームを作り出したのが1990年前後の時代でした。そんな中1年後に本当に日本一になっちゃったので、それはすごいことだったと思います。
良い成績を残しても…
その中でチームとして良い成績を残しても廃部になっていく経験をされます。
私が17年間実業団に所属する中で、結局4つのチームを渡り歩きました。廃部になる理由は、バブルが崩壊し不景気になり、女子サッカーに資金を回すことができなくなったことです。別のチームに移籍しても、そこでも守るべきは社員で、サッカーできるセミプロにはそこまで資金が回せず廃部、というのをずっと繰り返してきました。結局自分が所属していたチームで現状続いているのは、最初の小学校の渡スポーツ少年団のチームしかないというのが現実です。
女子サッカーって、頑張っても頑張っても報われないんだというのが自分の中でありました。悔しくてサッカーを続けている時代がすごく長かったと思います。自分の存在意義や女子サッカーの存在意義を確立するために、もがいて頑張っていた時期がすごく長かったと振り返れば思います。でもその時代があって今があるので、それはそれだなと今は思えます。
日本代表にも選出
サッカー女子日本代表にも選出されます。当時の心境を振り返って教えてください。
16歳で代表選手に選ばれました。1992年、高校2年の時で、まさか、とすごく嬉しかったです。自分たちが憧れていた場で、なでしこの高倉監督も当時の我々にとってみたらアイドルだったので、そういう雑誌で見てきた人たちとサッカーができるのは本当に嬉しかったし、ずっと緊張して終わった感じです。
オリンピックやワールドカップに出場することを経験して、代表というところは常に憧れの場所だし、選手をやっている以上は常に目指していた場所なので、一つ夢は果たしたと思います。地元を離れる時にうちの母親が、「日本代表選手を目指すのなら、代表選手になるまで帰ってくるな」と言っていたので(笑)そこは原動力だったかなと思います。
思い出深い試合
これまでのキャリアの中で思い出深い試合を教えてください。
幸にも不幸にも、というところで言うと、2003年に開催されるワールドカップの出場権をかけて戦った試合です。ストレートにはいかなくて、結局メキシコと0.5枠を争うプレーオフをホーム&アウェーで行いました。その後ワールドカップに出場し、それが「なでしこジャパン」と命名されるきっかけとなり、翌年のアテネオリンピックに出場することになります。
メキシコに行って、標高2000m、9万人近く入るスタジアムでやったのは、夢のようでした。その時の自分は何となくゾーンに入っていたというか、上から見てボールがスローに見えるような経験もしていました。その試合は2-2の同点でしたが、「これは絶対ワールドカップ行ける」という確信があった中で戦っていました。その後国立競技場でのホーム戦も勝利で終わり、あの2年間は自分がなでしこジャパンのキャプテンをやって、苦しい時代も帳消しになるような時期を過ごしたと思います。
そして引退へ
引退される当時を振り返って、心境を教えてください。
2005年に今で言うYKKから東京電力にチームが移管され、2005年からTEPCOマリーゼというチームでプレーしていました。その時自分が30歳。当時の30歳は、肩を叩かれ、そろそろ指導者になったらということを囁かれる年齢でした。しかしやはりもう一回頑張りたいという思いがありましたし、チームが移管するのに何か一役買いたい、何とかこのチームが軌道に乗ってくれたらという思いで続けていました。
自分が30歳になって、やはりスピードや対応力が落ちてきたと思うこともありましたが、自分にもっとできることがないか、当時は代表には選ばれなくなっていたけれど、何かもう一回、と。
ただその翌年に引退を決めたのは、若手でフォワードが出てきたら、それに対応できないと感じたからです。身体が0.5秒早く動けていたのが、その0.5秒に付いていけない、ということがあると、もう引退かなと、その年の夏くらいには決めていたかもしれません。結局は膝の大けがをして引退を決めるのですが、なるべくしてなったのかなと思います。やはりスピードの衰えと、自分の武器が通用しなくなったと感じたのは30歳超えたくらいからです。
受け入れられました。それ以上やってもチームのためにも自分のためにもならないし、変にずるずるぶら下がりたくないという思いもあって。かといってその時にはセカンドキャリアまでは全然考えていなくて、指導者なんて絶対にならないと思っていました。とりあえず辞めて実家に戻ってプー太郎しようかな、みたいな(笑)。サッカーから少し離れたいな、地元に帰って何か見つかるかもしれないな、とあまり深く考えずに実家に帰ってきました。
引退後は地元である境港市へ
引退後は地元の境港市に戻られます。地元に帰ってからはどう過ごされていましたか。
1年間はスクールをして地元の子たちと関わっている中で、JFAから声をかけていただきました。中国地方はまだまだ女性の指導者が少ないですし、山陰と山陽では力の差があるから、何かしら力になってくれないかという話で、私の力で良いのであれば、というところからこの指導者の道が始まりました。
2011年FIFA女子ワールドカップではなでしこジャパンは優勝を果たしました。大部さんはその頃は?
あの時はアンダーカテゴリーの指導者として活動していました。今活躍している長谷川唯たちが13~14歳くらいの頃、エリートプログラムやアンダーカテゴリーの代表となるチームを作っていて、高倉監督と一緒に若手選手の育成に力を入れ、同時に我々も指導者として育成されていたという時代でした。
グループリーグはあまり良い成績ではなかったと思います。でもトーナメントをやっていくうちに、「なんかもうこれ勝っちゃうかも」という雰囲気がありました。それはチームの雰囲気もそうですし、延長戦を制するような勝ち方もあります。またあの頃は東日本大震災があり、なんとかスポーツで頑張って機運を高めようという時期でした。現地でも、選手の中から「頑張って日本を元気にしていこう」という声が上がっていたとも聞きました。そして日本もまた、なでしこを後押ししているような感じもあり、お互いに助け合っている雰囲気がすごくありました。あの場面での勝利は、必然だったのではないかと思います。
女子サッカーならではの楽しみ方
男子サッカーの方が、強度がありスピードも速いという部分はありますが、大部さんが考える、女子サッカーならではの楽しみ方があれば教えてください!
やはりパスを繋ぎながら小気味良くいくのがなでしこの強みで、日本人に合ったサッカーだと思います。そしてそれをどうやって世界のパワーやフィジカルが強い中で立ち向かっていくか、というところが見どころだと思います。また世界に目を向けると、パワーや、女性があそこまでできるのだという部分も魅力だと思います。比べてしまうとどうしても男子より見劣りする部分があるとは思うのですが、その中でも、テクニックが上手な部分や、スピードが上がってきたという部分を見てもらえたら嬉しいです。
そして国によってカラーがすごく出ていると思います。他国のサッカーもぜひ興味を持って見てもらえたら嬉しいです。
改めて、サッカーをやっていて良かったこと
改めて、サッカーをやっていて良かったことを教えてください。
良かったと思うのは、は100の内0.00001くらいだと思うんですよ。でもそれを引き立ててくれたのが辛いことや苦しいことや、できなかったプレーができるようになったことです。そしてサッカーによって色々な国に行かせてもらって、日本って幸せな国だったと感じ、色々な人と出会い、サッカーも素晴らしいけど、日本の国ってこんなに素晴らしいのだと感じることができました。
アンダーカテゴリーで、例えばコスタリカやパプアニューギニアに行かせてもらった際、日本人の女の子ってすごく可愛がられるんですよ。ありがとうと言う仕草が可愛いとか、一生懸命ひたむきにしている姿勢が評価されます。
これは教育していることもありますが、洗濯物も凄く一生懸命手伝ったりするし、警備の方も日本を警護したいと取り合いになるんですよ(笑)そうやって愛されるところがあります。そういうところに携わらせてもらうと、選手時代から指導者も含めて、素晴らしいことだと思って。だからこそ、今、はぐくむセンターや北斗ソアラFCを立ち上げ、田舎かもしれませんができると思っている自分がいます。少人数でもやっていく価値があると思っていますし、ゆくゆくは男の子も女の子も関係なく、このグラウンドから色々な世界に飛び立っていける選手を輩出していきたいです。
サッカーが嫌いな時期が多かったのですが、今は胸を張って好きと言えます。
最後に
今後の夢や目標
本当に究極は、大部さんと出会えて良かったと言われる人材になりたいです。大部さんがいたからサッカーがやりたいと思えたと言ってもらえたら嬉しいです。サッカーを通じてお互いにありがとうと言い合える存在になりたいですね。
読者にメッセージ
まずはワールドカップをぜひ見てほしいと思います。放送は少ないですが、何かしらSNSやインターネットの媒体を使って、女子サッカーを見てみたいとアクセスをしてほしいと思います。
そしてこのグラウンドに足を運んでほしいです。私まで連絡をいただけたら北斗ソアラの練習を見ていきますかとお誘いできると思いますし、女の子たちがひたむきに頑張っている姿を少しでも見ていただけると嬉しいです。
今回の鳥取×働く人は大部由美さんでした。大部さんありがとうございました。
大部 由美(オオベ ユミ)
元なでしこジャパン主将/北斗ソアラFC創設監督
1975年2月15日生まれ
鳥取県境港市出身
幼い頃は病弱で学校にあまり行けない時期もあった。父親の転勤も多く、保育園・幼稚園を行き来し、小学生の頃は1学期毎に転向するという事もあった。
病弱で休みがち、転校を繰り返す大部だったが、かけっこでは1位をとるような女の子だった。
鳥取に落ち着くようになり、小学校4年生からサッカーを始める。朝は7時半からサッカー、昼休みもサッカー、放課後は20時までサッカーとサッカー漬けの日々だった。気が付くと自然と身体は強くなっていた。
中学生になると女子はサッカー部に入部できなかった。しかしながら、何か部活には所属しなければならないのでバレー部に入部した。サッカーを続けたかった大部は弓ヶ浜の『米子コスモス』という大人のサッカーチームに入部した。
そんな中で転機が訪れる。中学3年生の5月にマガジン杯という有名な大会に出場する事となる。大部のプレーはサッカーマガジン編集長の目に止まり、翌年に興證券が女子のチームを作るためのセレクションに参加する事になった。
サッカーとバレーの板挟みに悩まされ、サッカーを辞める事すら考えていた大部に訪れたまたとないチャンス。思い切って千葉に行って高校生活を送りながらサッカーをする事となる。
その後は17年間、実業団で女子サッカーチームに所属する中で、大部は4つのチームを渡り歩く事になる。頑張っても報われない世界、悔しくてサッカーを続けている時代が長かった。勝って成績が良くても予算面でチームが解体される。女子サッカーの存在意義を自身のプレーに問い続けた。
引退後は地元である境港市へ。
現在は北斗ソアラFC創設監督として、指導者の道へ。
Web
https://hokuto-soarer-fc.com/
インタビューを終えて
大部由美さん、ありがとうございました!
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山陰ペディアの名ばかり委員長。
担当はシステム、デザイン、ライティング。
本業はWebプロデューサー。
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