Shihan Koyama Akio, Director of International Affairs and General Manager at the Kyokushin Karate-do federation Kyokushin-kan
極真空手湖山道場師範
コンセプトムービー『道』
極真空手や湖山道場について
極真空手とは
一つは我々の極真空手のように、実践空手、またはフルコン空手と呼ぶものがあります。これは顔面と金的以外の身体に直接打撃をぶつけるものです。
もう一つは、所謂ノンコンタクトと呼ばれる伝統派空手です。これは技を相手の身体の直前で止める寸止めカラテです。従来はこの伝統派空手が主流でしたが、技が相手に当たっているのか、効いているのかが分かりにくく、そこに疑問を感じたのが極真空手の創始者である大山倍達(ますたつ)です。
山陰の極真空手道場
もちろん一般青年男子は防具を付けず、素手・素足で覇を競います。白帯、所謂初心者は、まずは基本をしっかり身に着け、色帯になって初めてグローブ等を着用し安全面に考慮しながら行います。多少痛みは伴いますが、世界中で4歳児から60歳以上の老若男女日々汗を流しています。
道場の雰囲気・必要なもの
トイレというとどうしても臭い・汚いといったイメージがありますが、生活の中で一番大事な空間だと思っています。そこを黒帯の先輩が率先して掃除を行い背中を見せることで、後輩たちにも学んでもらいたいという思いがあります。
コロナ禍での道場運営
それらが全くできず、一時はリモートで行い、大きな気合を入れないように、また間隔を空けて行うという、本当に難しい指導方針で今日までやってきました。
湖山彰夫の素顔に迫る
幼少期・学生時代
上京後に極真空手総本部に入門
当時の『空手バカ一代』の人気を振り返って
特に第一回世界大会をモチーフにした『地上最強のカラテ』というのは、国内外で大きな反響を呼びました。私自身も、人間は鍛えればここまでできるんだという、ある種のカルチャーショックを感じ、衝撃を受けました。
師匠について
廬山師範は本当にミスター極真、生ける伝説です。現在75歳になっても国内外を飛び回り、日々の鍛錬を怠らず、私の人生の師であると思っています。
大変だった出来事・辛かったエピソードなど
入門した当時は、鳥取の田舎から来たということで、温かく迎えてもらえるのではないかという淡い期待をしていました。
しかし実際は、北は北海道、南は沖縄、それどころか世界中から毎日多くの若人が入門してきます。本部には連日のようにたくさんの人が入ってきて、当然道場に入りきらず、階段や踊り場まで人がいるのです。
そしてそこで“間引き"をするわけです。つまり組手をサポーター無しの素手・素足で行います。ましてや白帯ではまともな受け方も分からず、当然辞めてしまいます。そうするとまた次の人が入ってくる、間引きをする、という繰り返しだったのです。
すると後に全日本で三連覇をする先輩に「左手が使えなければ右手が使えるだろう、手が使えなければ足が使えるだろう」と言われるのです。今思うと笑い話でしたが、当時は必死な思いでやっていましたね。
その人たちは会場まで3日間バスに揺られ、道中バスジャック強盗に合い、身ぐるみ剝がされても尚、日本から指導者が来るからという強い思いでいたのです。その時は本当に赤面する思いというか、日本から遠いなんて言っている自分自身が恥ずかしかったです。日本は平和で安全な国だとつくづく感じましたね。
第15回全日本空手道選手権大会
私は元々総本部から廬山師範の道場に移籍し、そこで黒帯を獲り、師範から全日本に出てみないかと話をいただき出場に至りました。私はそれまで試合の経験が無く、初めて出る大会が、世界大会を懸けた全日本という大舞台だったわけです。
終わった後は、肉体的な痛みはもちろん、精神的にも負けた悔しさがこみ上げてきて、涙が止まらなかったです。
療養を兼ねて山陰へ帰省
師匠である廬山師範が、支部を開設し後進の指導をしなければならないだろうと大山総裁にお口添えいただき、そして総裁は「鳥取は人口が少ないから島根県でやりなさい」と言われ、鳥取島根連合支部という形で山陰の地に開設し、現在に至ります。
"習いゴト"としての空手
教育の現場でも問題になっている子たちも道場に来るのですが、この子達が空手を通じて少しずつ成長していく姿を見ると、私自身嬉しいですし、これからも頑張っていってほしいという思いがあります。
空手自体、もちろん強さを求めるものではあります。しかしただ強さを求めるだけでなく、空手を通じて生涯現役、生涯修行、生涯求道ということだと思います。一番大事なことは、空手を通じて自分自身がどういう生き方をしていくかということです。
やはり辛く厳しい稽古よりは、小学生~中学・高校に上がるに連れ、厳しい稽古よりは遊びの方が楽しく、どうしてもそちらの誘惑に負けてしまう、ということはあります。山陰支部からも、やれば強くなる子はたくさんいたのですが、そういった理由や、進学や就職で県外に出ることで辞める子も多いです。今は娯楽も多く、選択が多い時代とも言えますね。
極真空手を広めるために
子供達に伝えたいこと
これは私なりの解釈ですが、武道を志す人間として、また社会に関わって生きていく上で、親孝行を基調とし、日頃お世話になっている全ての人に感謝し、それに報いる事だという教えだと思います。子供達が修行を通じ、人格形成、人間形成に務め、立派な大人になってもらいたいです。
最後に
今後の夢や目標
そして何よりも、空手を通じて肉体的、精神的な強さを養い、世の為、人の為に尽くせるような若人を多数輩出する事が私の目標であり、使命だと思います。
読者へメッセージ
極真館副館長/本部長/湖山道場師範
1958年8月生まれ
鳥取県米子市出身
鳥取県米子市和田町に生まれた湖山。信じ難い話ではあるが極真空手入門前の彼は自堕落した日々を過ごしていた。救いを求めて21歳で極真空手総本部の門を叩いたのだ。鳥取の田舎から入門をするという事で歓迎されるのではないかと淡い期待を抱いていたが、その希望は見事に打ち砕かれた。
山陰はおろか、日本中、いや世界中から極真空手の入門希望者が訪れていた。入門希望者はグローブもつけずに組手をさせられる。
厳しい環境の中で湖山は生き残ってみせた。
大山倍達総裁の下稽古に励む日々。その後に埼玉支部へ移籍し、廬山道場での厳しい内弟子修業を重ねながら、当時の内弟子寮「廬山泊」の初代寮長を務める事となる。
第3回全世界空手道選手権大会代表選手選考を兼ねた第15回全日本空手道選手権大会に参戦。強豪選手を次々に退け4回戦まで勝ち進むも、あと一歩のところで代表の座を逃す。
大会で故障をした湖山は療養も兼ねて山陰へUターンする事となる。
狭い町だ。極真空手の有力者が返ってきたという噂はたちまちと広まり、教えを乞う者達が集まった。
師である廬山の働きかけもあってか、極真会館鳥取島根連合支部開設を認可される。
それ以降、山陰に留まらず極真空手門下生の育成に励む。
インタビューを終えて
湖山彰夫さん、ありがとうございました!
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