日本最古の円形校舎での取材
今回は、鳥取県倉吉市にある倉吉フィギュアミュージアムにて、株式会社円形劇場代表取締役の稲嶋正彦さんにインタビューをさせていただきます。稲嶋さん、よろしくお願いします!
倉吉フィギュアミュージアムについて
日本で最も古い円形校舎を改修
フィギュアミュージアムの紹介というと、まずは円形校舎の紹介から入らなければいけません。この建物は昭和30年にできた、日本で残っている一番古い円形校舎です。これを解体するということが倉吉の市議会で決まったのですが、地元の人が残してほしいと一生懸命運動された結果で残ったものです。
しかし残して"何に使うか"というところが一番問題でした。そこでフィギュアミュージアムにしようという唐突な話が生まれまして、現在の形として運営しています。館内にはおよそ2000点のフィギュアを飾っています。フィギュアと言っても美少女系だけではなく、恐竜や動物、仏像といった色々なジャンルのものを並べています。
約2000点のフィギュアがコーナー別に常設展示されています。館長からの見所を教えてください。
フィギュアが好きな方にも楽しんでいただけますし、ご家族でも楽しんでいただけます。
充実した企画展
充実した企画展も倉吉フィギュアミュージアムの魅力です。
ここまでの企画展を定期的に実施されているわけですが、大変そうですね。
その都度この作家さんがいいなという人に、縁もゆかりもない人でもいきなり声をかけていきますので、断られることもあります。
鳥取県のこんな田舎でミュージアムをやっていると言っても、なかなかピンとこない人も多いので、そこで当たりをつけていくというのが大変なことです。
基本的に私ですね。スタッフから「こんな面白い人がいる」、「こんな面白いものが流行っている」という意見を参考に当たっていくことはあります。
赤井孝美さんが公式キャラクターを手がける
入り口にはフィギュアミュージアムの公式のキャラクターである"メイ君"と"リンちゃん"が描かれた大きなパネルがあります。このキャラクターは赤井孝美先生が考案されたということですが、当時の話を聞かせてください。
ここを立ち上げる時に、主に三社の協力があってこのミュージアムができました。一つは「海洋堂」という大阪に本社のある、日本で一番老舗のカリスマ社長がいた会社。
二つ目に、倉吉に工場を持つ日本で一番大きなフィギュアメーカーである「グッドスマイルカンパニー」という会社。そして米子ガイナックスを運営している赤井さんです。
最初に言った二つのメーカーさんはフィギュアメーカーさんですので、展示品を色々協力していただきました。赤井さんには、うちの建物のコンセプトを決めたり、イメージキャラクターを作ったりというところで協力していただきました。
その中で、ここは元々明倫小学校という小学校だったので、メイ君とリンちゃんの二人の男の子・女の子のキャラクターを作ってほしいということで書いていただきました。実はあのキャラクターはもっと裏も底も深いキャラクターなのですが、今はひとまず隠してあるという感じです(笑)
その裏の話、聞かせていただくということは…?(笑)
設定としては、メイ君とリンちゃんは宇宙人なのです。地球に、色々な地球人の生活の情報を収集しに来ているのです。しかし地球の生活をそのまま丸ごと持って帰るわけにはいかないので、今の地球人の生活や生き物を小さくして持って帰る、フィギュアにしてここに収集しているという、そういう体なのです。
尚且つこの円形校舎の丸い形は、実は宇宙船の形をしていて、地下には秘密基地もあるという設定の上で、あのメイ君とリンちゃんがいるのです。
その設定はとても面白いので、もっと出していった方がいいのではないでしょうか(笑)
海洋堂の宮脇専務
お話に出た海洋堂さんの宮脇専務には、稲嶋さんはかなり叱られながら勉強されたと伺っています。
そうなのです。そもそも海洋堂の社長が宮脇さんだったのですが、海洋堂に出入りする人も含めて全員が、社長のことを専務と呼ぶんですよ。不思議な会社でして。専務時代が長かったせいか分かりませんが、誰も宮脇社長のことを社長と呼ばず、専務と呼んでいたので、私も専務と呼んでいました。
とにかくフィギュアができた頃からの柱であり、中心的に進めてこられた方なので、今でも知識量、収集した作品の数、発言力、全てにおいて日本でトップの方です。その方にいきなり、倉吉でこんな取り組みをしたいので手伝ってほしいということをお話しに行きました。大阪人ですから「ええよ、やったるよ」と言っていただいて、そこまではよかったのです。
しかしそれから先なかなか進まない時、「もうそろそろ諦めたかと思った」なんて言われたり。ある映画を見ないで専務のところに行きましたら、「稲嶋お前はこの映画見たんか」と言われ、まだだと答えたら「この映画を見てないようなやつは今すぐ帰れ!」と言われるくらい、勉強してこない奴は嫌い、というような方ですね。でもすごく良い方ですよ。
私はフィギュアの"フィ"の字も知らなかった人間でしたので、そこから5年近いお付き合いをさせていただく中で、一生懸命勉強しています。
円形校舎について
そもそも、円形校舎とは?
円形の校舎は、西側は西日が強い点など、ものすごく日向に差があります。
そしてもう一つ、増築がしにくいことが挙げられます。丸なので引っ付けるわけにはいかず、そういった点から10年も経たないうちにパタッと建てられなくなりましたね。
多くの人達がこの円形校舎を残すために立ち上がる
旧明倫小学校円形校舎の卒業生達が立ち上げに関わったそうですね。当時のエピソードを教えてください。
円形校舎を残したいと言った方には卒業生の方もいますし、それよりもう一世代昔の方もいます。要するに子供さんがここに通っていたという世代の人たちですね。逆に、ここの円形校舎に縁もゆかりもない方もいます。
円形校舎というものがこの地区にできて65年経つのですが、この地区にとってはなくてはならないものであり、この建物を壊してしまったらこの町の記憶がなくなるというイメージでしょうか。そう感じていたので、使い道がないから、古いからというだけで簡単に壊してしまうのは…と、地元の人が頑張られました。
当時はすでに取り壊しが決まってしまっていたとうかがっています。
倉吉市議会で解体予算が可決されたので、行政手続き的には解体が正式決定した建物でした。
予算までついていた案件をひっくり返すなんて事、可能なのでしょうか?
できるんですね、私も初めてですけど(笑)解体決議が決まった時に、ちょうど中心市街地活性化基本計画というのを作っていた時で、その計画の中で、この建物の使い道がないかもう少し検討してみなさいという付帯決議がつきました。
要は、年度内10か月ほどの有効期間の間に、建物を残してどう有効活用をすればいいかというプランを持ってくれば、解体予算は凍結しておくという付帯決議が通ったということです。
フィギュア以外の案も出ていた
各方面と調整されながら進めたと思います。代替案を出す際に、フィギュアという案は既にあったのでしょうか?
実はここを残したいという運動自体は、それよりずっと前からあったのです。しかし具体的に何に使うかという話は全然まとまらず、フィギュアも本当にぎりぎりになって決まりました。
それまでは、B級グルメの館にして15部屋全部で違うB級グルメが食べられたらいいのではないかとか、ミツバチを飼っている町なので、この円筒形の建物すべてをミツバチの巣にしたらいいのではないかとか、本当に夢物語から何から様々にあったのです。
しかし結局は、ここを残していく維持費を税金に頼らず、"自分たちで稼ぎ出せるものを作らなければいけない"という点で、今のプランは全て無理だということになったのです。
そして最後に、ここは鍛冶町という鍛冶屋・ものづくりの街だということで、今の日本の最先端のものづくりって何だろうか、小学生にも分かるようなものづくりって何だろうかと考えた時にフィギュアを思いついたのです。
約7000名の署名が集まる
署名運動の際は約7000名の署名が集まったとの事ですが、署名活動時に工夫した点、または苦労した点などあれば教えてください。
先ほど言った地元の人の熱意というのは、実はそこに一番表れていると思います。残したいと思ってくれていた方々が、署名簿を持って色々な所に回り、署名をしていただきました。署名に行った先で、その方がまた別のところに署名に回って行くこともあり、徐々に広がっていきました。
地元の人の熱意と一言で言いますけれど、なかなかできるものではない動きをしていただいたと思っています。
円形校舎の方針については、実際は様々な意見が出たのではないでしょうか。
ご意見は多様ですから、残してもいいけど税金は使うなとか、もう古くてぼろぼろだからすぐ壊した方がいいとか、そういうご意見もたくさんありました。
そんな中でも、これを残してフィギュアのミュージアムにして、地域を元気にする建物にもう一度再生するんだという意欲を買っていただいたということだと思います。
いくつかの課題
赤井孝美さんとの対談では、行政を始め、各方面と大喧嘩をしながら調整をされたとおっしゃっていました。具体的にどういったところに調整が必要だったのでしょうか。
明倫小学校は市立の小学校ですので、倉吉市の持ち物であり、市から提示された条件は三つありました。まずは金銭的に大丈夫か、そして海洋堂を含めたメーカーは本当に協力するのか、最後に地元の同意を得られるか。この三つをクリアしないと譲渡するわけにはいかないと。
まずはお金なんて無いですから、金融機関に行き融資を申し込まなければいけないのですが、譲渡も決まっていない建物に、金融機関がお金を貸してくれる訳がないんですよね。しかしそれがないと無理だと市役所は言いますし、僕らはそんなもの出るわけがないじゃないかという、そこのやり取りが一つ。
次に、海洋堂さんからも赤井さんからもグッスマ(グッドスマイルカンパニー)さんからも協力を得られると伝えるのですが、私の言葉だけでは信用できないから、念書を書いてもらえとか、そういう話になるんですよね。
我々がお願いしているものを、「念書を書いてもらわないとできないそうです」なんて失礼な話は無いわけで、そこまでしなければいけないのかという話が一つ。
そして最後に地元の同意という点です。その時点で地元のご意見も"壊せ"と"残せ"が真二つでした。解体派を説得するのは今すぐにはできず、徐々に時間をかけてやっていくしかないので、それではタイムアップになってしまうと伝えました。
三つの条件とも、"できるけれども今すぐというのは無理"だということはずっと伝えていました。
そこから納得してもらう形にまで落とし込んだわけですか。
時間をかけて少しずつですが、ここまでなら出しても良い、ここまでならしても良い、というところが市の方からも譲歩していただけました。残すのか壊すのか2年近く議論を続けていましたので、やはり一定期間経つと結論を出さないといけない、という時が来ます。
そこで、一つは先ほどの7000名もの署名を始めとした地元の熱意があったこと、そしてもう一つは地元の経済会の団体、商工会議所や経済同友会といった経済団体が出してくださった要望書があったことが決め手となりました。
若い者がやろうとしているのだから応援してあげればよいではないかという内容でして、経済会も応援しているのではいいのでは、と市長、あるいは市の幹部の考え方が変わっていったのかもしれません。
やはり倉吉市の人口を増やすというのは今のご時世、まず無理じゃないですか。高齢化が進み自然に減少していくことは、どこの地方都市も一緒だと思うのです。ではどうやって人口を増やすかというと、固定人口ではなく、流動人口を増やすしかありません。
ここに流れ込んでくる人口を増やすしかなのです。流れ込んでくる人口を作るには観光に注目します。倉吉は昔ながらの街並みが残っていると言いますが、歴史のある町や古い町並みというのは日本中にあるわけで、では歴史で奈良や京都に勝てるかというとそうではありません。
であれば、ここに取って付けたものでも、あった方が良いのではないかと思ったのです。この円形校舎やフィギュアが、流動人口を生むことができる一つのテストケースになるのではないかと、経済会の方々にも強く申し上げました。それを経済会の方々が、まだ成功するかどうか分からない段階で乗ってくださったということだと思います。
クラウドファンディングにも挑戦
プロジェクト発足当時、クラウドファンディングにも挑戦されて、多くの方々に応援されていました。
この建物を残してフィギュアのミュージアムにする際に、メインとなるものが何一つないのです。大きくて、人目を引くものを作りたいので、その費用を皆さん協力してもらえないだろうか。それができることで、この古い建物も残して地域を元気づけることができるのだという趣旨のクラウドファンディングをしました。
人数で言うと300人、金額で200万円ちょっとですね。最初は100万円が目標でしたので、大体倍くらい集めることができました。本当に感謝しています。
元々取り壊す案が出た理由として、耐震面の問題もあったのでしょうか。
2006年に老朽化を理由に閉鎖していましたが、特にすぐには壊さなくてもいいことになっていました。しかし2011年の東日本大震災が大きな契機で、日本中の公共の建物の耐震を調べられた際に、ここも耐震がないという結論に至り、2014年に正式に解体という議決になりました。
安全性を考慮して建物を大改修
円形校舎をフィギュアミュージアムにする際には、建物自体にも手が加わっているのでしょうか。
構造自体は変わっていないのですが、一階・二階は耐震工事をやっています。それの費用はそんなに大きくはありません。もう一つの問題点として、ここの電気・水道が全滅していたので、そちらを替え、エアコン等の空調関係も整えました。
また、螺旋階段の周りにガラスの扉が巻いていると思うのですが、あれは防火用に今の消防法で決まっており設備しました。建築基準法や消防法など、建てられた時の法律にはマッチしているが、今の法律にはマッチしていないというところを、クリアするのにすごく費用が掛かりました。
これだけ地元の人たちが熱心にやってくださって残った建物を、不特定多数の人が入ってもらうために安心できない建物ではいけないということで、ちょっとやりすぎかなと思うくらい、安全面には気を遣ってやっていますね。
ここまでの手ごたえ
2018年4月7日がグランドオープンした倉吉フィギュアミュージアム。ここまでの手ごたえはいかがでしょうか。
目標数値には全然届いてないですし、経営的には非常に厳しい状況は続いています。しかし、元々ここは観光客が全くゼロだった地域だったのです。白壁土蔵には人が来ていますが、白壁まで来た人がここまで流れてくるかというと、全然そうではありませんでした。
ですので、観光客的にはゼロだったエリアに、1年目で4万人、2年目で5万人の観光需要を生み出したというところは、自分でも評価していいのかなと思います。当初10万人という大きな目標を立てたので、全然届いてないじゃないかっていう話かもしれないですが、それでも、ここまでの道のりとしては頑張ってきたのではないかと自分では思います。
2020年7月に放送されたTVアニメ「宇崎ちゃんは遊びたい!」では、鳥取とのコラボが実現し、フィギュアミュージアムが特に注目を集めるきっかけになったと思います。円形劇場にはどのような反響がありましたか?
「宇崎ちゃん」が放映され、その次の週くらいには関西方面からたくさん見に来られました。それまでも原画展として2階の廊下で原画を貼っていたのですが、あの放送回があってから、目に見えて人が増えました。
稲嶋正彦の素顔に迫る
幼少期や学生時代
ここからは、稲嶋さんのよりパーソナルな部分に迫っていこうと思います。
こんな爺さんのパーソナルどうでもいいんじゃないですか(笑)
とにかく何の変哲もない、普通の、頭のいい子でした(笑)
この明倫小学校の6年生の時には一応生徒会長をしていましたが、ごくごく普通に地味でそんなに目立たなかったつもりでいました。しかし意外と同級生に聞くと、小中の辺りまでは私を中心に人が集まっていると言う人はいますけどね。自分では全くそんな記憶はないです。
そんなに真ん中にいたいと思っているタイプではないので、割と高校過ぎてからは地味に生きていますよ。
高校卒業後は県外へ
高校を卒業して大学に行って、大学を卒業して会社に勤めて、全部で15年弱くらいは県外ですね。
そこから鳥取県にUターンされることとなります。きっかけは?
はっきり言うと父が亡くなったことですね。父が亡くなり、当時まだ60歳になるかならないかといったくらいに若かった母が一人になりました。私は大阪の方にいたので、そちらに母を呼び寄せようと思ったのですが、母がどうしても動きたくないというので、奥さんと子供を連れて我々が帰ってきたということです。
15年も大阪にいると、Uターンするのもなかなかの一大決心ですよね。
場所というより、仕事が私の天職だと思っていたので、辞めたくなかったというのはあります。
当時私は新聞記者をしていて、仕事自体が面白かったですから、なかなかそれをやめてこっちに帰ってくるというのは、周囲の反対も多かったです。しかし、子供を田舎で育てたいという思いは漠然とあったので、まだ二人目がやっと生まれたくらいだったこともあり、Uターンを決断しました。
酒屋が家業
稲嶋さんは元々、酒屋を営まれていたとお聞きしています。家業でされていたのですか。
父の代から、酒屋と言っても小売店ですが、お酒の小売店をやっていました。ですので、こちらに帰ってきても職業はあったということです。最初から勤め先を探さなくても、職業としての酒屋がありました。
私の娘婿がとりあえずは続けております。ここがオープンする1年前くらいから、私は全く酒屋のことはできなくなりましたから。今はこちらに専念ですね。
365日、ほとんどここで仕事をしているとうかがっています(笑)
ここは休館日が無いので、元旦も大晦日もお盆もずっと働いています。そのうち朝8時から夜20時までここにいますね。
トップの方がずっとここにいらっしゃるというのはすごいことですね。
トップというのかボトムというのか(笑)私がやらなければしょうがないという感じです。
先ほど言ったように経営が厳しいということもあって、スタッフを減らすことで皆さんに負担をかけている部分もあります。
しかしそれは私の責任でやったことなので、私がその分はカバーしなければいけないという気持ちはあります。
最後に
今後の夢や目標
ひとつには、今は見てもらうだけですが、フィギュアを作る側にもいきたいという夢はあります。大きなメーカーになるということではなく、作りたいものを作っていくという方向にまでもっていきたいです。
もっと言えばこの倉吉の色々な所に、フィギュアに関わる人たちが暮らしているといいですね。
例えば造形師の人や色を塗る人、もっと下絵に近いようなものを作る人も含めて、この倉吉近辺にたくさん住んでいるという状況になってほしいです。
そして更に、この円形劇場だけでなく、この周辺にそういう人たちが住んでいて、見せるだけでなく本当にフィギュアが産業としてこの町に根付くようになってほしいと思います。
読者へメッセージ
円形劇場倉吉フィギュアミュージアムという建物や施設は、本当に地域のために残した建物です。個人の趣味とか、私が儲けて蔵を建てようとか、そういう思いで残した建物ではありません。本当に皆さんに共有していただきたい建物です。その共有をするために、"フィギュア"というものを材料として使わせていただきました。
それをどのように受け止めて、どのように自分の中で感じていただくかはお客さん次第です。こちらから押し付けるものでもありませんので、ぜひ自由に楽しんで、自由に遊んでいただきたいと思います。
ご家族連れの方には、ゲームなどもご用意していますので、ぜひゆっくり楽しみに来てください。お待ちしております!
今回の鳥取×働く人は稲嶋正彦さんでした。稲嶋さん、ありがとうございました。
稲嶋 正彦(いなしま まさひこ)
株式会社円形劇場 代表取締役社長
鳥取県倉吉市出身
稲嶋はフィギュアの事を全く知らない素人だった。
旧明倫小学校取り壊しの話が出た際に、真っ先に立ち上がったのが彼ら卒業生達だった。活動をしている内に、この円形校舎を残したいと感じるのは卒業生達だけではない事に気付く。彼らよりも上の世代で、自分の子供が円形校舎に通っていた人。卒業生ではなくとも、地元の方々。円形校舎が倉吉に住まう人々の記録と記憶を担う役割をしていたのだ。
しかし、円形校舎を残すためには維持費を税金に頼らずに運営していく必要があった。
円形校舎の再利用方法として、B級グルメの聖地にする、ミツバチの巣にするなどフィギュア以外にも様々な案が挙がった。本当に夢物語のようなアイディアまで出た。
倉吉は鍛冶屋、ものづくりの街だという事、小学生にもわかるものづくりは何だろうと考え抜いた先に、フィギュアに辿り着く。
海洋堂、グッドスマイルカンパニー、米子ガイナックスなど各方面のプロフェッショナル達に協力を仰ぐ。海洋堂の宮脇専務に怒られながらも、稲嶋はフィギュアについて学ぶ。なるほど、知れば知る程に面白い世界だった。
市民からの賛同を得る必要もあった。署名の数は7000名に上る。中には明倫小学校に縁もゆかりもない人が、活動に共感して署名してくれたものまであった。
そして、その道のプロ、民心、そして行政と全てを巻き込んだ戦いに勝った。円形校舎を残す事が許された。
様々な協力者がいた事に違いはないが、全ては一人の男の行動から始まった。
同級生達はみんな定年を迎える頃に、稲嶋は多額の借金を背負って新たなチャレンジを始めた。目標数には到達しなかったものの、1年目・2年目と結果を出した。
稲嶋は今も、この最古の円形校舎で学びを続けている。
そして、円形校舎はこれからも記憶し続ける。この倉吉の街並みとそこで戦った男の姿を。
円形劇場くらよしフィギュアミュージアム公式Webサイト
https://enkei-museum.com/
twitter
https://twitter.com/enkeigekijyou
インタビューを終えて
事前に連絡してから行けば、稲嶋さん自らガイドもしてくれます!
稲嶋正彦さん、ありがとうございました!
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山陰ペディアの名ばかり委員長。
担当はシステム、デザイン、ライティング。
本業はWebプロデューサー。
好きな事は、ゲーム・アニメ・お酒を飲むこと、歌うこと。
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