みなみフォトデザイン:南良介さんの登場
コンセプトムービー
みなみフォトデザインについて
みなみフォトデザインの強味
今までうちに来られたお子様の中には、最初は写真館というところに慣れず、泣いたりする方もいるのですが、徐々に話をして慣れてもらって、大概最後は笑顔で帰られるというお客様が多いですね。中には「もう帰りたくない」と言って駄々をこねるお客様もいます(笑)
そういった点から、お陰様でリピーターのお客様が多く、喜んでいただいているのだと思っています。
コロナ禍で写真屋さんが感じている事
こちらの撮る側としても警戒することもあるんですよね。東京から帰って来られたということを後から聞いたりすると、やはり怖いなという気持ちになったりします。
また撮影の時には、スタッフはお客様の着物を触ったり、直接間近で接するので、看護師さんが使っているような手袋を着けて作業していますね。
営業時間・定休日について
貸衣装を多く取り揃えている
集め始めたのはオープン当時からで、衣装は持っていないとこれからやっていけないということを薄々感じていました。当時まだこちらの方ではさほどそれが大きな力になるとは思っていなかったんですけどね。
そのうち全国チェーンのお店が出てこられて、衣装の種類や数に特化して商売をされていた部分もあったので、これじゃまずいなというのもあって、チェーン店にはないような衣装も集めるようになりました。
様々なシーンで利用されている
遠方からのお客様も
南良介の素顔に迫る
幼少期、学生時代について
遊び場は専ら裏の大港神社でして、毎日のようにビー玉やメンコ、ろくむしって分かります?そういうのをやって遊んでいました。
幼少期は聖心幼稚園というクリスチャンの幼稚園に行っていまして、その関係で毎週日曜日に礼拝をしていました。そのあとは王道の境小学校、境一中、境高校というルートです。生粋の境港人としてずっと過ごしてきました。
写真の道に進んだきっかけ
東京工芸大学写真技術科へ
写真の工芸大学は本来2年で終わるのですが、あまりに楽しかったので、親に無理言ってもう1年研究生で残らせてくれと言って在学しました。その頃は好きな風景写真やドキュメンタリーに近いような写真をずっと撮っていました。
しかし写真って結構お金がかかるんですよ。暗室で作業したり、カメラやフィルム、その他の道具が諸々かかって、結構お金の負担を親にはかけたのではないかと思っています。当時はそれも分からず本当に夢中でやっていましたけどね。
東京代々木島津写真館で修行を積む
たまたま仲の良い先輩がそこの写真館に勤めていて誘われ、あまり考えもせずそこに入ったんですよ。それが良かったのかどうかは分かりませんが(笑)
私は入って2年間ラボの方に行っていまして、カラープリントをずっとやっていましたね。本当は撮影の方に行きたかったのですが、なぜかそちらを最初にやってくれと言われてやっていました。
それから2年経ち撮影部へと言われ移動します。昔は修業時代があり、最初にアシスタントを5年くらいしてからカメラマンになるというのが普通の時代だったので、入って5年くらいは下積みだなと思っていました。
しかし入って1年過ぎに、僕らの先輩が3~4人一気に辞めてしまい、カメラマンがいなくなってしまったんです。そこでまだアシスタントを1年もしていないうちにカメラマンをやってくれと言われて(笑)
大体のそこの仕事をこなせるようになったので、そろそろいいかと思って退社し、こちらに帰ってきました。
数々のコンテストで受賞
しかしその後こちらで色々な組合やサークルに入った時に、鳥取県という田舎でも上手な方が沢山おられるのだと感動しましたし、自分はまだまだ井の中の蛙だなと感じましたね。
しかも応募した写真が、いきなり富士フイルムのポスターに使っていただいたんですよ。自分が撮った写真がポスターになったのを見て、やはり非常に嬉しかったですし、お客様に感想を言っていただき、その時やっと手ごたえを感じることができました。
最初に来られたお客さんに写真撮りましょうかと言うと「どこで撮るんですか」とびっくりされるんです(笑)ただその狭いスタジオで工夫しながら色々なことをしたのが、今役立っていることも多いのかなと思います。
そしてこちらの方に土地を買い、スタジオを建てて今に至ります。
愛用機の歴史、変遷
修業時代はシノゴ(4×5インチ)のカメラと言われる大判で、普通の35mmの10倍くらいの面積があるフィルムで撮るLinhof(リンホフ)、Horseman(ホースマン)、GITZO(ジッツオ)等を使った撮影が多かったです。
こちらに帰ってきてからはMamiyaの『RZ』というカメラがうちのスタジオのメインでした。それは3台ボディがあって、レンズも結構色々持っていました。
その後デジタルに変わってからはCANONですね。EOS(イオス)というカメラをずっと使っていますね。
休日の過ごし方
あとは中学校時代からギターを弾くのが好きで、昔はバンドをやっていたこともあるので、たまにぽろぽろ弾いたり。体が鈍るとゴルフの打ちっぱなしに行ったり温泉に行ったりします。
仕事をしていて嬉しかった出来事やエピソード
特にわんわん泣いていたお子様が、帰りに「もう帰りたくない、ずっといたい」って言われる時は、この仕事をしていて良かったという喜びが湧きます。
また、あるお客様を私が撮った後、ぽろっと一言「南さんってすごく一生懸命撮られますよね、すごく感動しました」と言われたことがありました。こちらはそんなつもりはないのですが、汗水垂らして撮っていたんでしょう。そういうのを言われた時は本当に良かったなと思いますね。
フォトグラファーにとって大切な事
そしてもう一つは、『僕らの仕事は品がないとダメだ』ということ。お客様を撮っても、その写真を見る人はそのお客様だけではない。他の人が見たとき、そのお客様の写真を評価する人はその人以外にもいて、そのことも考えなければいけないということです。
それを、下手したら顔のアップで撮ったりだとか、衣装の前にものを置いてボケていたりといった、せっかくの良い衣装が映っていない写真を撮るカメラマンもいて、そういうのはどうかなと思うんですよ。そういう部分はきちんとしていないといけない、基本は単写真で、全てが残るような写真を作りたいなという気持ちです。
最近は、デジタルになってから特にですが、カメラさえあれば誰でもカメラマンになれる時代になっています。僕らの時代はフィルムで撮っていたので、失敗ができないんです。撮ったものをすぐに結果で見られず、現像してやっと映っていることが分かる時代でした。
今は撮った瞬間もモニターで確認できますよね。そういうのが羨ましい反面、一枚一枚が軽くなっている気もします。だからこそ我々はフィルム時代からやってきた下積みがあるので、基本を大事にして撮りたいと思っています。数打てば当たるものではなくて、一球入魂というか、そういうのを大事にしたいです。
境港市の話
境港市の魅力
あとは、水木しげるロードですかね。今はコロナ渦で寂しい状態ですけども、あそこに行くとこんなに人が来ているんだとびっくりしますよね。
おすすめ観光スポット
美味しいお魚が食べられるお店
最後に
今後の夢や目標
誰から見ても良い写真だと思われるような写真作りをしていきたいなと思います。
この前テレビで三浦知良選手が、継続する原動力は”もっとうまくなりたいから”と言っているのを見ました。これだ、気持ちはここだなと思いましたね。
この商売には幸い定年がないですから、体が続く限りはやりたいと思います。それが皆さんの役に立てば本当に嬉しいです。仕事をして社会貢献なんておこがましいですが、人に喜んでもらえるということを大事にしたいです。
読者の方にメッセージ
そういう写真を撮らせていただいている時は本当に感無量でありまして、この仕事をやっていて良かったと心から思います。そういったリピーターのお客様に支えられて、ずっとやってこられたのだとつくづく感じます。
これからもお客様一人一人を大事にして、足繁く通っていただける、こう言っては何ですが、私のファンみたいな人ができたらいいなと思っております。
本当に、これからもよろしくお願いいたします。
みなみフォトデザイン代表/フォトグラファー
鳥取県境港市出身
境港市元町商店街で生まれ育つ。今で云うところの水木しげるロードのあたりだ。父親は小さなカメラ屋を営んでいた。裏の大港人社で毎日のようにビー玉やメンコ、ろくむしで遊び、活発な少年だった。
境小学校、境一中、境高校と進み、生粋の境港っ子である。
進路を決める際に、特にやりたい事もなかったので写真の学校へ進む事にした。それまでカメラに興味を持った事なく、ただ身近な存在であったカメラを選んだ。
東京工芸大学写真技術科へ。
家業を継ぐ気がなかった男は、どんどん写真にのめり込んでゆく。自分で撮って自分で現像をして、風景写真やドキュメンタリー写真の作品作りに励んだ。
あまりにも写真が楽しくなったため、父に無理を言ってもう1年研究生として残る。
卒業後は運良く先輩が勤めていた東京代々木島津写真館へ。撮影部門と現像部門に分かれており、総勢30名のスタッフを抱える大きな写真館だった。修行を積むには十分なお店だった。
当時の写真の世界はアシスタント期間3~5年を経てカメラマンに昇格するのが常であったが、ドタバタと急に人が辞めていってしまい、入社して1年過ぎでカメラマンを務める事となる。嬉しさも怖さもこみ上げてくるが、修行としてはうってつけの機会だった。
ほどなくしてUターン。東京でプロとしてやってきた自負と奢りがあったが、地元鳥取県のフォトグラファーの腕前は凄かった。井の中の蛙であった事を知る。
スタジオを始めて35年。60歳を過ぎた今なお『上手くなりたい』と語る。目の輝きは学生時代にカメラの楽しさを知ったあの頃と何ら変わらない。
みなみフォトデザイン公式ホームページ
https://minami-photo.jp/
インタビューを終えて
南良介さん、ありがとうございました!
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