レインボージャズオーケストラのバンドマスター
コンセプトムービー
レインボージャズオーケストラとは
自己紹介
ですから、今から47年前にレインボージャズオーケストラに入ったことになります。それから47年間、レインボー一筋で頑張っております。
バンマスの役割
それから代々バンドマスターが変わりまして、私は7代目になります。十数年続けております。
過去には優秀な先輩方がたくさんいらっしゃったのですが、高齢になられて退団されるとか、そういったことで代替わりをしながら続いているということですね。
50周年コンサート
過去に私たちのバンドに在籍しておられた方や、地元で色々とお世話になったプレーヤーをお招きして、レインボーの歴史を再現しようじゃないかと考えております。
そしてマスクの着用をしていただきます。また、誠に申し訳ないことなのですが、プログラムの手渡しができないのです。皆さんがご自分で取っていただくことと、チケットに必ず氏名と連絡先を書いていただくことをお願いしております。会場は米子市公会堂ですが、行政サイドからの指導がありまして、キャパシティの半分までの入場数にしてほしいということでした。そこで、キャパシティが約1000人の米子市公会堂の半分の、約500席に制限させていただいています。それをご了承の上でぜひ、おいでいただければと思っています。
そもそもビッグバンドとは?
そこでは非常に厳しい生活を強いられていたのですが、その中で一縷の楽しみとして、ジャズではなく、ネイチャーの音楽、リズムとかを使って楽しみをしていた、というのが元々のルーツなのです。それが発展して、ゴスペルなどに繋がっています。当時は打楽器と歌だけでした。
ところがここに大きな転機が訪れます。それが南北戦争です。南北戦争が終わると、敗れた南軍の軍楽隊にあった楽器が、タダ同然で放出されるのです。それを、元々アフリカ系の人たちが手に入れ、初めてヨーロッパの楽器が彼らに渡るのです。それと同時に、南北戦争で南軍が負け、奴隷が解放される。すごく開放的な雰囲気と、手に入れた楽器によって、彼ら独自の音楽を作っていった、それがジャズのルーツです。
そもそも当時ジャズは、ビッグバンドとしてではなく、ダンス音楽のバックバンドとして作られていきました。それから段々とアメリカが経済発展していくに従って、パーティーやダンスといった社交界が広がっていき、音楽としての楽しみが皆さんに広がっていく。
ところがそれは小編成のバンドではなかなか難しいものです。オーケストレーションができるようなハーモニーを作ったり、リズムセクションとホーンセクションを分けたような大編成のバンドが次第に要求されるようになります。
それが少しずつ形を整え、今のビッグバンドという形のバンドができます。それがそもそものビッグバンドの成り立ちです。それが発展して色んな形体の楽団に変化していくのですが、当時のビッグバンドという大きな編成のジャズを行うオーケストラは、ずっと今に続いているということになります。
ハーモニーや色々な楽器の競合によって音楽の幅を作るには、ジャズの中でもビッグバンドという形式が一番適していると思います。ビッグバンドは大きなホールで演奏しても、沢山の人間がいるので大きな音が出ます。大きなホールでやるといえば、一番はダンスパーティー。そのためにできたと言っても過言ではないです。
その後ビッグバンドが発展し、聞かせる音楽として、大ホールの演奏にも耐えうるものとして広がります。昔は今のように優れた音響設備が無かったので、生の音を聞いていました。ですから、たくさんの人間がいることで、大きなホールでも大きな音が出せる。そういう成り立ちでビッグバンドは作られたと思ってもいいかもしれません。
ですから、レインボージャズオーケストラも私が加入したように、先輩・後輩の繋がりですとか、あるいは転勤して来られた方、東京や大阪でバンド活動をしていて、こちらでそういった団体を探しておられる方を強引に誘い込んで、何とか維持しています。
ちなみにうちのバンドの最高齢はもう70歳です。バンドの平均年齢は50を超えているのではないでしょうか。
個性豊かなメンバー
何となく、やっている楽器によって全体の雰囲気が分かってきます。楽器の特性かもしれませんが。ビッグバンドは大きく分けて“サックスセクション、所謂リードセクションと呼ばれる部分と、トランペット・トロンボーンの“ホーンセクション、ベース・ドラム・ギターの“リズムセクションで作られるのが基本的な構成です。
面白いのが、イケイケ、俺が俺が、という感じなのはトランペットなんですよ(笑)練習中に色々なことを言うのはトランペットですね。そしてトロンボーンは楽器の特性上、ハーモニーや調和を重視するというのは歴史的にあります。
元々教会で使われていた楽器ということもあり、ハーモニーの美しさを重要視するので、お互いに忖度し合うんですよ(笑)だから、隣の音がちょっと大きいと思ったら自分も少し大きく出す、みたいな、何とも言えない暗黙の了解があります。だからあまり文句は言いません。調整役みたいな。
そしてサックスの皆さんは皆バラバラです。基本的にサックスって、ソロをするのに一番適している楽器なんですね。加えて音色の柔らかさから、綺麗なハーモニーを出すことはありますが、基本的にビッグバンドの中ではメロディーラインをとることが多いので、それを主張する人が多いです。
そしてアルト、テナー、バリトンというように3種類の楽器が混じっているので、それぞれが自己主張するということが多いですが、ハーモニーを重視するために忖度する気持ちもあります。だから、トランペットのように大きく文句は言いませんが、腹に一物、みたいな人は多いです。
そしてリズムは「黙って俺について来い」と。ビッグバンドは、ジャズはリズムあってなんぼ。音楽の土台を作っている、どっしりとした人が多いですね。
音楽の喜び
アマチュアなので、「仕事をしながら」「時間に都合をつけて」「遅くまで練習して」とかよく言われます。何で俺たちはここまで苦労して演奏会をしなければいけないのだと、時々自問自答することもあります。しかし、最後のステージが終わりお客様の喜んだ顔を見た時に、全ての苦労が吹き飛びます。
印象的な過去のコンサート
おそらく日本のアマチュアバンドで、『原信夫とシャープス&フラッツ』の手書きの楽譜を持っているのはうちだけだと思います。シャープス&フラッツとは何回か共演させていただき、その時に楽譜をいただきました。それは今でも宝物のように大事にしています。
そして毎年のように、原さんは果物がお好きなので、私の方からお歳暮として鳥取の梨を送っていました。実は去年の暮にも原さんとお話をしたばかりだったのです。「バンドを上手くやっているか」「ビッグバンドって、こういう風にやっていかなくてはならないよ」といった話を個人的にいただいて、まだまだお元気だと思っていたのですが、本当に残念です。
また、ペギー葉山さんとも共演させていただいています。実はうちの創立者の松永が大ファンでして、ペギーさんをゲストにお招きするということが夢だったのです。しかし、ペギー葉山さんといえば世界にも通用する有名な歌手ですので、なかなか来ていただけないと思っていました。
それが偶然、私の前の代のバンドマスターである田中義晴君が、学生時代に付き合いのあった奥田英人さんという、ビッグバンドのバンドマスターであり、色々な企画運営をするプロデューサーの方がいらっしゃいました。そこで奥田さんにお願いし、ペギーさんにコンタクトしていただき、彼女をゲストにお迎えすることができました。普通はこんな一介の田舎の、アマチュアのビッグバンドにゲストで来ていただけるなんてありえない話です。
『JAZZ PARK』のパーソナリティー
このフレーズは、東日本大震災がきっかけです。ジャズパークの収録前にこの大惨事が起き、私の中で、今までのような明るい雰囲気での締めの言葉を言ってもいいのか?という疑問が生じたのですね。
そこで、惨禍に会われた方々への励ましと未来への希望を持って戴ければとの思いから、このフレーズを入れました。当時のプロデューサーさんから今後もこれでいきましょう、という事で今日まで続いています。
でも、被害を本当に理解も体験もしていない自分が、こんな高飛車的発言をしてもいいのかな?という微かな疑問はいつも心の片隅にあります。
若い音楽家が育っている山陰
清水泰の素顔に迫る
幼少期・学生時代
今から50年前ですから、古き良き時代の日本です。当時の寮の1年生は、奴隷ですね。完全なる縦社会。封建制度とは確たるものという感じでした(笑)
通学を始めると家にテレビという魔物があるので、全く勉強しなくなって。これは自慢じゃないですが、1~2年生の時は成績優秀で、クラスで順位は一桁でした。ところが、4年で留年しましたけんね(笑)その後の生活は皆さんのご想像にお任せします。
音楽を始めたきっかけ
しかし中学校になって、それがなんとなく頭に残っていたのでしょうね。音楽室に最初に行ったんですよ。そこで吹奏楽部に出会い、音楽室に行った1年生はすぐに捕まえられて。「あなたは体が大きいから、金管楽器。しかも低音の楽器がいい。トロンボーンに1年生がいない」といって無理やり。当時はまだ今のように荒んでおらず素直だったので、先輩から言われたら他の選択肢がなかったですね。
もう一つは、今はこんな感じですけど、小学校の時ははっきり言っておデブちゃんだったので、運動部は無理だなと。そっちの方が理由としては大きかったのかもしれません(笑)
最初は福岡県北九州高専に行きました。体が170cm、80kg、当時では結構大きかったので、寮のラグビー部の先輩に目を付けられて、「ラグビー部に来い」と言われ(笑)行かなかったらどうなるんだろうという感じです。そして行ったのが運の尽き。でも、音楽の道は捨てがたいと思っていたんですね。
その時は一旦音楽からは離れていました。米子高専に転校した時も、ラグビー部に所属はしていました。ところが、米子高専の吹奏楽部にトロンボーン吹きが一人しかいなかったのです。トロンボーンを中学校の頃に吹いていたことを言ったら、演奏会の前だけでいいから、エキストラでいいから楽器を吹いてくれと言われて入りました。そうこうするうちに、吹奏楽部にいた先輩がレインボージャズオーケストラを教えてくれて、そこでもトロンボーン吹きが足りないということで行って、そのままですよ。
高校卒業、就職へ
そこが結構都会だったので、バンドがあったんですね。そこでずっと社会人バンドとして演奏は続けていました。
某製鉄所の子会社で、開発部門に勤務、当初は製鉄機械の設計をしていましたが、某自動車メーカーの開発部門へ出向、そこで自動車エンジンの開発にたずさわった事もあります。自動車産業は鉄鋼業界では最大のお客様。当時自動車の開発競争が激しくてエンジニアが不足していたんです。そこで、お客様から派遣要請があり、会社としては断り切れずに数名の同僚と共に出向しました。
でも、はっきり言って楽しかったですね。だって車のエンジンの設計ですよ。
機械設計者にとって憧れの分野ですもの。さらに派遣先が神奈川県でしたから休日の度にあちこち観光できたのもラッキーでしたね(笑)
今度、橋の設計を受けたからその部署へ行ってくれとの事。実は私が当時勤めていた会社は、製鉄会社ゆえ日本で最高の橋梁専用ワイヤーを制作しており、過去には瀬戸大橋や関門橋、若戸大橋などケーブル橋を専門とする設計部門があったんです。そこに飛ばされた訳です。
そこで主に明石海峡大橋のケーブル関連の設計に携わることになりました。
同時期にはレインボーブリッジのプロジェクトも並行して進行してました。あ、これは別の担当者ですよ(笑)
当時、設計部長が御前会議に出てたんですが、「行き詰っている。何でもいいからアイデアが欲しい」と電話がかかってきました。こっちもそんなにすぐ名案が浮かぶはずもありませんよね。が、なぜかふと設計仕様書の文言が頭に浮かび「塔頂間の設営誤差は1000分の1以下とうたってあります。
塔頂間は約2000メートルですから2メートル以内は誤差の範囲内じゃないんですか。」と、なんとはなしに答えたら「それだ、それだ!!」といって電話を切られました。これが決め手になったわけじゃないと思いますが、その後、そのまま工事が再開されたので、何らかの影響があったのかもしれません。(笑)
その後、明石海峡が一段落した後、しまなみ海道の来島海峡大橋の担当をすることが決まっていたのですが、家庭の事情で退職することになりました。
今になって思えば、歴史的構造物の建造にかかわれるチャンスだったのに、ちょっと残念だったかな。(笑)
レインボーに復帰
木こりの仕事
その時代から、木こりという職業はあったのですね。当時から木を伐る人、それを運ぶ人、それを元にして家を建てる人というように、仕事ごとに分かれています。ところが最近は、木こりは木を伐るだけでなく、森を作る。木を植え、育てて、そしてその木を利用する。利用した後空き地になるので、そこにまた木を植える。循環、今で言うSDGsですね。山を監理するのが、今の木こりと言われている人の仕事です。
日本では「農林水産省」と自然相手の産業を一括りにしていますけど、農業と林業はその利益還元のスパンが全く違う。農作物のほとんどは一年周期で利益還元できます。果樹なども数年の育成期間が必要ですが、その後は一年周期で収穫可能です。
しかし、木材は最低でも20年普通は40年~60年、銘木クラスになると百数十年の年月が必要です。当然、自分一代では収益をえることは不可能です。
今、私たちが木材資源の恩恵を受けているのは御先祖様のおかげなのです。にもかかわらず、今の自分を顧みた時、その立ち位置はどうなのだろう…。今の自分の収入源は、ご先祖様が準備していて下さった木を切って得たもの。
自分が植林したものでもなく、ただ目の前にある木を切って収入としている。この事に凄くジレンマを感じ、自己嫌悪に陥る時期が結構続きました。
つまり、林業という生業は自分の代だけでは完結せずに、過去から未来へ引継がれていく流れのような産業なんですね。その中で、自分の役割はこの流れを途絶えさせることなく引継いでいく、いわば管理人なのではないかと…。
ご先祖様から引継いできた木を切って生きる糧を得るという事は、山を守る管理費をいただいているのだ、そう思うと、すっと気が楽になりましたね。贅沢をしなくてもいい、今の生活が維持できれば…。必要以上の木を切る事もなく、山の維持管理をしていく使命感みたいなものも生まれてきました。年を取ってきたかな(笑)
雪が降った次の日にその方から電話があり、5~10cm積雪があることを伝えるとすぐに来て、その日の夜には雪の中キャンプをしました。そして彼はそこで、インスタ等で風景をアップしたんです。それが「これうちの山?!」と驚くほどとても映えていました。インスタ映えするような場所はあちこちに沢山あります。
わっしょい米子祭り
ある有名なプロのプレーヤーの方が核となって、地域のアマチュアや中高生を巻き込んで、音楽文化を広めていくということはとても素晴らしい企画だと思います。これからもぜひずっと続けていただきたいと思います。もちろん我々も、お声かけいただいたらぜひ協力させていただきます。
ズバリ、今後のレインボージャズオーケストラについて
ですから、結構お金をかけて音響や照明を使い、地域のアマチュアのビッグバンドの定期演奏会にしてはド派手なものとなっていました。時々来られたゲストの方がびっくりされるんですね、「大変失礼ですが、鳥取のアマチュアバンドですよね。こんなに素晴らしいステージを作られるのですか」と。
その方向でこれからも行っていいのかと少し疑問に思う部分もあるのです。設立された当時は、本当に手作りで、地元のアマチュアの演奏家が集まり、ゲストの方も著名な方ではなくとも、地元の方をお招きし、こじんまりとやっていました。
ですから51年目からは、もう一度原点に立ち返ってみようじゃないかという気持ちはあります。著名な方をお招きしなくても、派手な照明やプロ並みの音響を使わなくても、生音で来ていただいたお客様に楽しんでいただける演奏を目指した方がいいのではないかと。
コンサートホールでしたら反響版を下して、マイクを通さず、直接生の音をお届けするという方法。シンプルな音楽、古き良き時代のビッグバンドに回帰しようという風に進んでいけたらと思っています。これはバンドのメンバーと議論して決めなければなりませんが、私個人的にはそっちの方向で行けたらいいです。
噂によると入団試験があるのではないかとか、推薦がいるといった話があるようですが、一切そういったことはございません。ご希望の方がいらっしゃったら、私に電話一本いただけたら、いつでもお迎えいたします。
ちなみに今年入ったトロンボーンに20代の女性がいらっしゃいます。彼女は、転勤で米子に来られました。電話で「団員募集と聞いたけどどうですか」と聞かれてぜひ来てくださいと即答しましたよ(笑)
最後に
今後の夢や目標
今一番心配なのは、山を監理している中で、もし自分がいなくなったらこれは一体どうなるんだろうということです。できる限り、自分が今まで経験してきたことや、仕事に対するノウハウを、ちゃんと目に見える形で残していきたいです。
音楽に関しては、そもそも演奏することが好きなので。実力は置いておいて、好きと上手いは全く相関関係はありませんのでね。ただ好きなだけです。演奏がずっと続けていけたらなと思います。
読者へメッセージ
また、レインボージャズオーケストラのことを見ていただき、とても感謝しております。本当にありがとうございました。
今後とも、私個人ではなく、レインボージャズオーケストラのことをご支援、忌憚のないご意見、お叱りの言葉でも、いただけたらとても嬉しく思います。
今回は本当にありがとうございました。
レインボージャズオーケストラバンドマスター/木こり
1956年5月8日生まれ
福岡県福岡市出身
福岡県出身の清水は、父親が国家公務員だったこともあり転勤族だった。なので入学した小学校と卒業した小学校は異なる。
音楽に触れたのは中学校1年生の頃。自分には運動部は無理だと感じていた清水は音楽室へ。
そこで出会った先輩に「あなたは体が大きいから、金管楽器。しかも低温の楽器がいい。トロンボーンに1年生がいない」と言われてしまいパートまで決まった状態で入部。中学校3年間は音楽に打ち込む。
中学校卒業後は地元の高専へ進んだが、その後に父親の転勤がまた決まる。高専内でも転校することができて、清水は米子高専へ通う事となる。ここで鳥取県に足を踏み入れる。米子高専の吹奏楽部にもトロンボーン吹きが少なかったことから入部。そこの吹奏楽部の先輩にレインボージャズオーケストラの事を教えてもらい、レインボーにも入る事となった。ここからが清水のレインボージャズオーケストラでのキャリアスタートとなる。
高専卒業後は県外企業へ就職し機械設計の道へ。レインボージャズオーケストラに加入して3年経った頃だ。もちろん、県外に行ってしまった事からレインボージャズオーケストラの活動には参加できず。そこから十数年間は活動から遠のくこととなる。
しかし、トロンボーンを吹くのをやめることはなかった。
そして、結婚を機に退職し鳥取へ戻ることとなる。生まれの故郷ではなくても米子高専時代を過ごした思い出深い土地だった。清水が鳥取へ戻ってきたことは瞬く間に仲間達に広まり、すぐにレインボーの練習参加への呼び出しがかかる。
2021年でレインボージャズオーケストラは50周年。レインボーが作った山陰の音楽文化は若き才能達へと引き継がれていく。
公式Webサイト
http://rainbow-rainbow.com/
インタビューを終えて
清水泰さん、ありがとうございました!
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